深夜高速


できることなら何もせず、布団の中で目を瞑って胸に残る鈍痛を味わっていたい。
しかしどれほど悲嘆に暮れようとも腹は減る。三日前から一歩も外に出ていないため、家にある食い物はほとんど食い尽くしたはずだ。何かないだろうか。
重い腰を上げて布団から起き上がり冷蔵庫を調べた。調味料類、賞味期限の切れたキムチ、かいわれ大根
何か食べに行こう、俺は外に出ることにした。寝巻きにグレーのパーカーを羽織り、すっかり鈍った体に鞭を打ってゆっくりと玄関を開けると、沈みゆく太陽が薄っすらと広がる雲を照らし空が燃えているようだった。

アパートを出て右側に進むと10分程で大通りに出る。俺は何気なく大通りに向かった。
6月といっても日が暮れるとまだ肌寒い。もう少し暖かい上着を着てくれば良かった。パーカーのチャックを首まで閉めて身を縮こめながらとぼとぼと歩みを進めた。まだ6時過ぎだというのに周りには人っ子一人歩いておらず、通りには物悲しい雰囲気が立ち込めている。
腹が減ると大抵は大通りにあるチェーンの牛丼屋かラーメン屋に入ってしまう。今回もそうしようと思っていたのだが、通り沿いにある廃れた蕎麦屋が目に付いた。今にも崩れてしまいそうな木造二階建てで、マッチ一本あれば燃えてしまいそうだ。暖簾は二股に分かれている部分の左側が棒に絡まってひっくり返り、すけという店名の一部しか読み取ることができない。店の前に置かれたショーケースには煤けて黒々とした蕎麦やカツ丼、カレーライスなどの食品サンプル。二階には人が住んでるようで、窓格子にかけられた洗濯物が風に揺れていた。
時折目にすることはあったが特に気に止めたことはなかった。外観からして上手い蕎麦が食えるとは到底思えないが、大通りに出るのも億劫なので試しに入ることにした。
がっがっがらがらがら、引き戸の噛み合わせが異常に悪い。
「いらっしゃーい」
花柄の褪せた割烹着を着た初老の女が突っ立っていた。
女の後ろにはカウンターが真っ直ぐ伸びており椅子が5つ、左側には4人掛けのテーブル席が4卓あり、俺以外の客は一番奥のカウンターで新聞片手に蕎麦をすするおっさんだけである。店の中は微かに線香の匂いがした。俺は入り口に一番近いテーブル席に座り、味の薄いお茶をすすりながらメニューを眺めた。
そばすけ。店の名前はそばすけである。なんとなく鼻につく名前だ。
俺はメニューの中からオーソドックスなざる蕎麦を注文した。
「ざるそばー」同じ調子で女は厨房に注文を伝えた。
店内は店構えと同様に凄まじくぼろい。昔は白かったであろう壁は黄色く変色し、ところどころに得体の知れないシミが付着している。カウンターやテーブルは日曜大工を始めたばかりの者が廃材を集めて数時間で作ったような粗末なものであり、薄っすらと埃が積もっていた。台布巾がなかったので、俺はパーカーの袖でテーブルを拭った。
少しすると、奥に座るおっさんは爪楊枝を咥え丸めた新聞で肩を叩きながらこちらに歩いてくる。
「おばちゃん、会計お願い」

「あいよー」
会計を済ませたおっさんはこちらを一度振り返り、小声で女と話し始めた。新しい客が珍しいのか、どうやら俺の話をしているようだ。
おっさんが店を出た後、女はカウンターに座り頬杖をついてテレビの方に顔を向けた。
テレビは入り口のすぐ横のどの席からも見える位置に置いてあるのだが、音量がやたらでかく耳がきんきんする上に、ニュース番組の特集で顔をモザイク補正された主婦が泣きながら夫の浮気について語っている。
テレビの周りには大小様々なこけしが置かれており、店内を冷ややかな笑顔で見つめていた。
店全体に漂う寂寥感に俺は今にも店を出てしまいたくなった。
「お待ちどー」
思っていたよりも早くざる蕎麦が膳に乗って運ばれてきた。ざるに乗った蕎麦、つけ汁、わさびと葱の薬味。想像通りのざる蕎麦である。俺は薬味をつゆに入れ、さて蕎麦を食おうと箸で麺を摘むと、茹でてから時間が経っているのか、麺は適度にほぐれようとせず全体の3分の2くらいが箸に付いてきた。
溜息が出る。定番のざる蕎麦でもこの有様なのだから、手の込んだ料理は食えたものではない。
俺は苛立ちをぐっと堪え固まった麺をぶっきらぼうにつゆへ放り込むと、蕎麦猪口の容量を超えたつゆが膳に溢れ水たまりを作った。水たまりは小さく波紋を描き、男の顔を写している。
なんでなんだ。

仕事が長引き0時頃家に着いた俺は酒を少々とつまみ、優子のためのスイーツをぶら下げて意気揚々と家に入った。
静寂。居間の電気は付いているようだが、人の気配がしない。
「いないのかー」
返事がない。居間に入ると優子の姿はなかった。
今しがた誰かがいた気配はするのだが、部屋は静まり返っている。
コンビニにでも行っているのだろうと、俺はソファーに深く腰掛けた。疲れが柔らかいソファーに染み出していくのを感じる。何故だか優子の顔が無性に見たくなり、帰りを今か今かと待ちわびていた。
俺は暇潰しにテレビでも見ようとリモコンを手に取った時、テーブルの上に一枚の紙きれを見つけた。

好きな人ができました。
四六時中その人のことばかり考えています。
あなたには悪いけど、もう付き合い続けることはできません。
いきなりのことですが、もうどうにもならないのです。
探したりしないでください。
さようなら。

ん。どういうことだ。
体から血の気が引くのを感じた。頭の奥がじんじんと疼き目眩がする。
優子が俺以外の男に心を奪われているなんて全く気付きもしなかった。恋人になってからの2年という時間は確実に2人を近づけているものだと思っていた。今朝だっていつものように二人で珈琲を飲み、早朝に起きた事件についてあれこれと話をしていたというのに、そんな日常の中で優子の心は確実に俺から離れ、他の誰かに向かっていたのだ。
何度も電話をかけてみたが、着信を拒否されているようで繋がらない。
とりあえず落ち着こう。顔を洗ってすっきりしてから考えよう。
ユニットバスのドアを開けると床が水浸しになっており、浴槽の方からちゃぽちゃぽちゃぽという水の音が聞こえる。
トイレと浴槽を仕切るカーテンをずらすと蛇口からお湯がとめどなく噴き出しており、浴槽から溢れていた。

俺はやっとの思いで蕎麦を食べきった。蕎麦はゴムのように固くなっており、噛み切るのに一苦労であった。つゆの方も限度を超えたしょっぱさで水分を欲しくなったが、お茶のお代わりを出す気配もなく女は相変わらずテレビを見続けていた。
女の隣には暇になった店主が同じ格好でテレビを見ており、二人でぶつぶつと会話をしている。二人は一緒になって長いのだろう。どんなところにもそれなりの幸せが存在する。何処で出会いどのように恋に落ちたのかもわからない無数の男女達が愛し合っている。
俺は気分が悪くなり、トイレに駆け込んだ。口を濯ぎ顔を上げると鏡には髭が不清潔に伸び、頬のこけた男が映っていた。
もう帰ろう。
「お会計お願いします」
トイレから戻りお会計をもらった。
「1000円でーす」
あんな粗末な蕎麦が1000円もするのか。俺は血がふつふつと煮えたぎるのを感じた。財布から千円札を取り出す手はわずかに震え、赤く膨れた血管が見えるようだった。目頭は徐々に熱を帯び涙が出そうになった。
俺はお金を払い、取り付けの悪い引き戸を横にずらすと、がっがっがっ、半身分くらい開いて動かなくなった。俺は少しムキになり力任せに横にずらすと、引き戸はレールから外れ店内に倒れ込み、大きな音を立てた。
女が背後で狂った様に喚いている。それに続いて店主も喚きだす。
体の中の血液が全て頭に集まり、目の前が暗くなった。
「文句言うなら、もうちょっとマシな蕎麦出せよ。こんな店二度と来るか。馬鹿野郎。」
こんなに怒りを露わにしたのはいつぶりだろうか。いや、初めてかもしれない。
それに馬鹿野郎なんて人に向かって言ったことはなかった。
俺は開け放たれた入り口を通って外に飛び出した。
雨がアスファルトの上で弾けている。
日もすっかり沈みあたりは真っ暗で、白熱灯の明かりだけが物悲しく通りを照らしていた。雨だというのに白熱灯の周りには数匹の虫達が飛んでおり、弱々しく羽を揺らしている。少し歩いてから後ろを振り返ると、女が店先に顔を出し憎々しげな表情でこちらを睨んでいる。
俺はパーカーのフードを被り、早歩きで家に向かった。
雨粒で顔が濡れて視界がぼやける。闇夜に揺蕩う白熱灯の灯り。
好きな奴って誰なんだ。一度会ったことのある大学時代の友人か。優子が頻繁に話していた職場の上司か。それとも俺の知らない誰かなのか。疑いだすと誰もが怪しく感じられる。今も優子がその男と一緒におり、楽しげな会話をし、楽しげに食事を取り、体を交えることを想像すると胸の中で爆竹が弾けるような心地がした。
タバコが無性に吸いたくなりポケットに手を入れると、ソフトボックスに収められたタバコはぐっしょりと濡れていた。おもむろに一本抜き取り無理に火を付けようとしたが、湿った先端は黒く色を変えるだけであり、俺はアパートの目の前にケースごとタバコを叩きつけた。
鍵を開け、ぐっしょりと濡れた靴を脱ぐと体から一気に力抜けた。
俺は玄関に服を脱ぎ捨て、浴槽にお湯をためて廊下にうつ伏せで倒れ込んだ。
どーどーどーどーどー
浴槽の底をお湯が叩く音が聞こえる。
どーどーどーどーどー
湿った体が床に溶けてしまいそうだ。
どーどーどーどーどー
なんでなんだ。

気がつくと俺は脱ぎ捨てた服を着て、外に飛び出していた。
水を含んだ洋服はずしりと体にのしかかり、コンクリートを踏むたびに素足と靴が擦れて痛んだが、そんなことは気にもせず忘我の中俺は走った。
雨は店を出た時よりも勢いを増し、走る俺の顔めがけて勢い良く飛んでくる。ぼやけた視界の中では夜に雨があるのか雨の隙間に夜があるのかわからない。
やっとの思いで大通りに出ると、右から赤いテールランプ。空車。俺は手を挙げてタクシーに乗り込んだ。

運転手はびしょ濡れの俺を見るなり、怪訝な表情を浮かべた。

「お客さん、そんなびしょ濡れで入ってこられると困るよ。他にもお客さん乗るんだからさ。もう止めちゃったからしょうがないけど、あんまりジタバタして車内を濡らさないでよ。」

「とりあえず真っ直ぐ行ってください。真っ直ぐ」

タクシーの運転手は返事をせず、車を動かした。雨粒がタクシーのルーフを引っ切り無しに打ち付ける。心臓は久しぶりの運動に驚き、はち切れんばかりに高鳴っていた。
俺は軽く背もたれに寄りかかり、車内の熱気で曇ったサイドガラスを拭った。暗闇のずっと奥の方では青白く光る月が雲の間から顔を覗かせていた。

「お客さん、どこまで真っ直ぐ行くんだ。もう直ぐで橋に着くけど渡るのかい」

「そのまま、どこまでも真っ直ぐ行ってください」